Edelweiβ(エーデルヴァイス)

 日曜日のカフェ「モン・プチ」のドアを開けると<愛の歓び>を謳うシャンソンが流れていた。エルヴィスのヒット曲「Can't Help Falling In Love」の元歌だ。この曲は映画「マリーアントワネットの首飾り」の中で、マリーアントワネットが歌うシーンに使われていた。

 店内は空いていて、私は一番奥の窓際の席に座ることができた。私はブレンドをオーダーした。この店では、私的にはブレンドがいちばんのお勧めだと思っている。というのは、私の心模様によってその味が微妙に変化するからだ。
(今日の味は…)
 と、運ばれてきたコーヒーに口をつけるとマイルドなほろ苦さが私の口の中に広がった。
(この味は…?)
 それは私の中で大切なものが毀れたときの切ない味だった。
 

 思い込みにはいつも裏切られる。思い込みが強ければ強いほど毀れ方が酷くなる。そう分かってはいても、人が思い込みの呪縛から逃れるのは並大抵のことではない。
 思い込みではない<思い込み>という言葉のパズルのような世界があってもいいのではないかと私は思う。



花のことば_エーデルワイス-01
花のことば_エーデルワイス-01 posted by (C)トロイ


 緑のカーペットが敷き詰められた高原。透き通るような青い空。マーガレットの白。タンポポの黄。放牧された牛たち。草原に身を横たえて眼をつむるとカウベルの音が眠気を誘ってくる。ぼくたちはそんな世界にいるのだと思っていた。

 当時、ぼくは大学生。麓の町に住んでいた。彼女の屋敷は聳え立つ山の頂き付近にあった。岩肌を深く削り取った氷河が青白く光っている山はウェディング・ドレスをまとったように白く輝いていた。麓から高原駅までは一般の鉄道で行くことができる。そこから山頂へはプライベートな登山電車で急勾配を昇っていく。ぼくはこの登山電車に乗ったことがなかった。正確に言えば、乗ることは出来なかった。

 ぼくが彼女に逢ったのは日が沈みかけた高原駅のホームのベンチだった。ぼくは麓への最終電車を待っていた。そんなぼくの目にブルーのベンチに腰をかけている白いレースのワンピースの彼女の姿が飛び込んできた。透きとおるような白い手にはコバルト・ブルーの表紙の本が…。
 緊張にこわばりながらぼくは彼女に歩み寄ると、深く一呼吸してから声をかけてみた。
「こんにちは。麓、までですか」ぼくの声は緊張を隠しきれなかった。
「いいえ、、上です」本から顔を上げると彼女は微笑んだ。
「上!す、すみません。読書の…邪魔をしてしまって」これだけ言うのが精一杯だった。
「あ、いいんです。待ち時間があるので読んでいただけですので」
 彼女の包容力なのであろうか、初対面なのにぼくは不思議なほどいろいろな話をすることができた。僅かな時間ではあったが、本のこと、映画のこと、音楽のことなどを話した。
 <上>の人だけのことはある、とぼくは思った。どんな話題にも彼女の感性が溢れていた。ぼくは彼女を好きになってしまった。その一方で、彼女を好きになってもどうしようもないことも感じていた。<上>の人たちと<麓>の人間とは所詮住んでいる世界が違うからだ。

 お互いの電車がホームに入ってきたとき、見えない力に突き動かされたかのように、ぼくはぼくの電話番号を書いたメモを彼女に差し出した。
「あ、あなたの、電話番号を…」
 ぼくが言い終わらぬうちに、彼女はぼくのメモは受け取らずに小さな鍵をぼくに手渡した。
「電話はないのです。手紙でご連絡をさせていただきします。それはメール・ボックスの鍵です」
 彼女は登山電車の入線するホームの鉄柱に設けてあるライト・ブルーのメールボックスを指差した。

 次の日からメールボックスを覗くのがぼくの楽しみになった。ドキドキしながらひんやりとしたメールボックスを開けるときのぼくの心の高鳴りや高揚した気持ちはいまでも鮮かに蘇ってくる。

 ぼくは晴れた日に草原に寝転がって彼女からのメールを読むのが好きだった。天から祝福されているような感じがしたからだ。天気が悪い日は駅前のカフェで手紙を読んだ。手紙を読むと返事を書き、それをメール・ボックスに投函して麓の町に戻る。そんな日々であった。

 彼女から高原駅で会うという返事をもらったときは、喜びでぼくの身体が自然にふるえてきた。草原に寝転がって喜びを噛みしめようとしても、横隔膜が小刻みに震え始めてぼくはすぐに起き上がってしまう。寝転がっていられずに立ち上がってしまう。ぼくはどうしていいのか分からないほど落ち着きをなくしてしまっていた。ぼくの返信の文字も興奮で震えていたに違いない。こんなラブストリーがぼくに微笑むこと自体が奇跡に近かった。

 彼女の都合のついたときに、ぼくたちはこの高原駅で会い、高原の花々に囲まれて二人の時間を過ごし、高原駅のホームで再会を約してそれぞれの家路に向かった。彼女は<上>に、ぼくは<麓>へ。

 彼女の時間が許すときは、麓の町まで下って映画を見たり、天井桟敷の学生の席でコンサートを楽しんだり、学生に人気のある安くて美味しい店で食事をしたこともあった。
 
 ぼくはぼくの時間が輝き始めたのを感じた。時間が輝き始めると、人の存在自体も輝くらしい。そして周囲の自然はもちろん見慣れた建物やなんの変哲もない小道さえも意味を持ち始めてくる。
「オマエ、最近、いいことあったな」
 友人がぼくの肩を小突いてニヤリとした。友人から冷やかされても、ぼくは別に悪い気はしなかった。それどころか幸福感がぼくの身体を走り抜けた。


 そんなある日、不図したことで、彼女とのことはぼくの思い込みに過ぎないのかもしれないと感じたことがあった。
 高原駅の近くにあるヒュッテ風のレストランで食事をしていたとき、彼女がどこかしら落ち着かない様子なのにぼくは気がついた。そのときはぼくの話題に興味がないからだろうと思った。
 高原駅で彼女を見送ったとき、彼女はぼくのほうに振り向くこともなく登山電車の車輛の中に消えていった。
 <麓>の人間に見送られているのを<上>の人たちに見られるのが彼女は嫌なのだろう、ぼくはそう想っていた。
 しかしその日は違っていた。すべてはぼくの思い込みによるものであり、彼女はぼくのことをそれほど思ってはいないのではないかという想念が、ぼくの脳裏にはじめて過ぎった。
 ぼくは有頂天になりすぎていたのだ。

 その後も数日間は手紙のやり取りが普段通りに続いていた。手紙の内容からは特に変わったことは感じられなかった。


 あの日は朝から雲行きが怪しかった。
 ぼくはいつもの通りに高原駅に出かけメールボックスを開けて手紙を取り出した。
「私が大切にしていた別邸のお花を見にいくことができなくなりました。お手紙はしばらく…。お許しください」そう書いてあった。
(大切にしていた別邸の花とはどんな花なんだろう?)
 <花>に託された意味も分からないまま、ぼくは乏しい語彙のつなぎ合わせて心から見舞いの手紙をしたためた。

 3日後、メールボックスに彼女からの返事が入っていた。
「心配させてごめんなさい。いますこし元気になりましたら、また、お手紙を書きます」
 ぼくは彼女が悲しみの淵に沈んでしまってはいないかと心配だった。
 彼女がなにか書いてくるかもしれない…無駄だと思いながらも、ぼくは毎日メールボックスを開けに行った。もちろん、手紙は入っていなかった。

 数日後、意を決してぼくは彼女に手紙を書いた。「悲しみの殻の中に閉じこもってしまってはなにも始まりません。先に進めません。どうか元気を出して…」
 2日後、彼女から返事が来た。読むまでもなかった。彼女の手紙はぼくが彼女に<禁じ手>を使ってしまったことを暗示していた。ぼくの存在がそしてぼくの手紙が彼女の精神的負担になっていることが文面から伝わってきた。
 彼女は<哀しみ>で完全武装をしていた。そうすることで彼女は彼女の<悲しみ>がいかに大きいものであるかを自ら確認しているようにぼくには思えた。ぼくが返事を書く必要もなかった。書けばさらに<禁じ手>を付け加えてしまうからだ。

 翌日、ぼくはメールボックスの鍵を返しに高原駅まで出かけた。
 鍵をメールボックスに入れる前に今一度メールボックスを開けてみると、彼女からの手紙が入っていた。そこには、ぼくを傷つけたことに対する彼女からの謝罪が述べられていた。ぼくは短い返事を書いた。「ぼくは大丈夫です。分かっていますから…」。
 迷ったあげく、ぼくは鍵を返さずに麓にもどった。

 次の日、メールボックスに彼女から手紙が届いた。元気になったことが述べてあった。ぼくは安心した旨を返事に書いたが、ぼくの心が以前のようには文面に乗らないのを感じた。ぼくは「傷ついた」のではなく、ぼくの中のなにかが「毀れて」しまったのだ。
 その手紙をメールボックスに入れたぼくの様子を見かねたのか、老いた駅員がぼくに銀色の帷子(かたびら)を貸してくれた。
「これを着て上に行ってみなされ」
「???」
「ニーベルングの指輪の、ほれ、あの帷子みたいなものじゃ」
 ぼくは礼を述べて、その帷子を身につけると登山電車に乗り込んだ。だれもぼくには気がつかないようだった。

 電車は途中から岩壁をくり貫いた長いトンネルに入った。耳の鼓膜がおかしくなってきた。頭の中がふわーっと浮いたような感じだった。空気が薄くなってきているのが分かった。
 途中で2箇所、3分ほど停車するむねのアナウンスがあった。どちらの駅も乗降客はいなかった。何のための停車なのかぼくには分からなかった。
 駅のホームには、自然にできた岩壁の穴なのか人工的に岩壁をくりぬいたものなのか、外の景色を眺められる箇所があった。
 わずかだがぼくには十分な停車の時間を利用して、そこから山間に静かに眠る森と湖の光景を眺めた。
(別世界!)
 ぼくは、<上>のひとたちと<麓>のひとたちの住む世界の違いを実感させられた。


 from ノイシュヴァンシュタイン城-02c
from ノイシュヴァンシュタイン城-02c posted by (C)トロイ


 頂上駅に着いた。寒さに身体が震えた。乗客はそれぞれ岩壁をくり貫いたGang(通路)の中に姿を消していった。ぼくは本能的に「館へ」と書かれた標識に従ってGang(通路)を進んでいった。

 しばらく行くと、氷河を削って造った氷の宮殿の大広間に出た。その奥に小さな部屋がいくつもあり、青白い光を放つ空間の氷壁の中には王冠を戴いた王や王妃が蝋人形の立像のように静かに眠っていた。

 さらに奥に進んでいくと白いライトに照らされた瀟洒な小部屋があり、部屋の中央に氷のデスクが置かれていた。引き出しを開けるとコバルト・ブルーの表紙の日記が入っていた。
 イケナイとは思いながら、ぼくは好奇心からその日記を開いてみた。字体と日付から、日記が彼女の手によって書かれたものであるのがわかった。そこには、想いを寄せているひとへの彼女の熱い胸の内が愛に溢れた言葉で書かれていた。
(やはり、なぁ。ぼくを喜ばそうと、ぼくを楽しくさせようとして、ぼくに合わせてくれていたんだ。彼女の優しさかぁ…)
 ぼくは日記を元通りに引き出しの中に戻し、そっと引き出しを閉めた。
 ぼくの心は空っぽなのにぼくの身体は重かった。

 ぼくは氷の宮殿を後にした。
 高原駅に近づくにしたがって、酸素が充分に身体に行き渡ってきたためか、ぼくの思考力も平常に近いところまで戻り始めてきた。高原駅に着くと私は駅員に帷子を返しにいった。
「どうも、ありがとうございました」
「少しはこいつが役に立てたかのぉ」
「ええ」
「んで、お分かりになったことじゃろうが…プリンセスは、エーデルワイスの世界をプリンセスにもたらしてくれる…、そんな夢を育んでいきたかったのじゃろうな」
(プリンセス!!)
「そのようですね、どうもありがとう。あっ、この鍵、プリンセスに返していただけますか」ぼくは努めて平静を装って言った。
「それはわしにはできねぇ。あの郵便受けにオマエさんが入れればいい」
「分かりました。では、失礼します」自分の声が変にこわばっているのがぼくにもわかった。

 メールボックスの上部の口から鍵を中に落とすと、ブルーのメールボックスが火のように赤くなり、やがて氷のように滴りを落としながら融けて消えていった。
 ホームの鉄柱にはあのライト・ブルーのメールボックスの代わりにどこにでもありそうなブリキの赤い郵便受けが架かっていた。…そう、ぼくの目と鼻の先に。

 ぼくはなにかが分かりかけていた。ぼくは山の頂きを見上げた。氷河の青白い色がさみしさを発光しているように思えた。

 ぼくは麓までの電車に乗った。車窓から眺める高原の風景は涙がにじむほど美しかった。白いマーガレットの群落がウェディング・ドレスのスロープのように思えた。
 不意に私は背後に彼女の視線を感じた。私は身をよじりながら車窓の斜め後方にある山頂を見上げた。私の網膜にはノイ・シュヴァンシュタイン城を思わす優美な古城がはっきりと映っていた。
 中央のErkerfenster(出窓)の向こうに、哀しみの影をまとった白いものが見えた。その姿はまるで美しい一羽の白鳥の姿のようだった。
(彼女だ!)
 ぼくはそう直感した。
「し・あ・わ・せ・を・ど・う・も・あ・り・が・と・う。…。さ・よ・う・な・ら。お・げ・ん・き・で」
 私の耳に彼女の心の声が届いてきた。ぼくの心の中の氷河が溶けていき、エーデルワイスの白い花が一面に咲き始めた。ぼくも心の中で彼女に答えていた。
(ぼくも幸せでした。どうもありがとう。プリンセス、お元気で…お幸せに!!)
 胸の奥から熱いものが込み上げてきた。
(プリンセスが別邸で育てていた花とは…もしかしたらぼくらの花だったのだろうか。プリンセスはぼくが日記を見ることを分かっていて、あの日記を書いたのかもしれない。そしてあの駅員もすべて承知の上で…)
 夜の鹿の尻声のような汽笛が、高原の澄み切った空気を小刻みに震わせながら後方の景色の中に融け去っていった。


花物語_エーデルワイス-01
花物語_エーデルワイス-01 posted by (C)トロイ


 私は冷めたコーヒーを一息に飲み乾すとカフェ「モン・プチ」のドアを開けた。初夏のさわやかな風が心地よかった。
(ブレンド、次はどんな味になるのかなぁ…)

 私は「Can't Help Falling In Love」を口ずさみながら、U-Bahn(地下鉄)に乗るために人気のないの暗い階段を下りて行った。




追記:

*私のHP『夢幻のスペース・オデッセー』↓

   夢幻のスペース・オデッセー

  HPにも来ていただけると嬉しいです。


*心象風景の画像のある「夢幻のOdyssey(オデッセー)」と「for BLOG_心象風景」はこちらです。↓

   夢幻のOdyssey(オデッセー)

   for BLOG_心象風景

そして、↓

   『for 「575の宙」』

他の画像も見に来ていただけると嬉しいです。


Thank you in advance for your visit.

関連記事
スポンサーサイト

テーマ : 短編小説
ジャンル : 小説・文学

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

KJYD

Author:KJYD
来てくださったかたがたに、そして『拍手』をしてくださったかたがたに、心から

Alles Gute!

どうもありがとう。


*東京散歩の写真、「心象風景」や「ショートストーリー」そして「575の宙に」などに用いた画像など、『フォト蔵』にアルバムとしてアップしてあります。
よろしくお願いいたします。

Thanks a lot.


お願い:

*フォト蔵の画像保存機能の不具合により、ブログに用いた画像の一部が非表示になってしまうことが度々あります。

 非表示になってしまった全ての画像をフォト蔵で再保存してブログに再表示させても、また、他の画像や同じ画像が非表示になってしまいます(T_T)

 非表示になっている画像がありましたらコメント欄などで教えていただけると有難いです。

 よろしくお願いいたします。

最新記事
カテゴリ
最新コメント
カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
月別アーカイブ
リンク
検索フォーム
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる